「京都を彩る建物や庭園」に選定
四条河原町の南西角に立つ「池善ビル」は建築からまもなく約100年を迎えます。まちの皆様にも長く親しんでいただいているこのビルは、昨年、京都市の「京都を彩る建物や庭園」に選定していただくことができました。50年以上の歴史がある建物ならば選に入るかもしれないと伝え聞き、応募してみたところ令和3年(2021年)3月1日に選定証を頂戴しました。
池善ビルの建築年は未だにはっきりとはわかっていません。このビルで長年「株式会社池善化粧品店」の経営者であった私の父からは、昭和5年(1930年)ごろに建ったと聞いていました。
鴨川畔に建つヴォーリズ建築の東華菜館さん(旧矢尾政)は大正15年(1926年)の完成ですが、その矢尾政さんの建築途中を撮影した写真に、白い池善ビルが写っています。また、手元にある「昭和の御大典」こと昭和3年(1928年)に行われた昭和天皇即位大礼記念博覧会の記念絵葉書にも池善ビルの姿があります。当時、池善ビルに隣接していた刃物の老舗「常久」さんの洋館も同時期に完成したようです。池善ビルの建築は、昭和5年以前、大正末期なのではないかと考えています。
そんな古いビルが髙島屋さんの正面玄関隣に建っているものですから、四条のまちの真ん中で「ふんばっている」ように見えるのか、「ド根性ビル」と呼ぶ人もあれば、私も幼いころから「お前のところはなんで立ち退かへんのんや」と、からかわれたりもしました。しかし、父母や私が知る限り、また昭和58年(1983年)に父が株式会社池善化粧品店の社長になってからは、どこからも買収のお話はなく、皆さんが思われるよりもはるかに平和に、そしていたって和やかにお商売を続けてきたようです。
池善こと「池田屋善兵衛」と四条
私が物心ついたときには、両親そろって池善化粧品店で仕事をしていたため、このレトロビルを見ながら成長しました。当時、南隣には尾州屋さん、新雪さんがテナントとしてご入居されていて、西隣には髙島屋さん、目の前には四条河原町の交差点があり、それを日常の風景だと思って生活してきました。店にはいつもたくさんのお客様がおられ、母がにこやかに接客し、父もニコニコと和やかな雰囲気がいっぱいでした。よくいらっしゃるお客様には私も可愛がっていただきました。
池善ビルは、建設当初から親族の間で持ち主が変わっていますが、祖父(父の養父であり叔父)の所有となったことはなく、平成12年(2000年)、親族の一人が手放すことを機に、父が土地と建物のすべてを買い取りました。父からは、江戸時代に曽祖父(池田屋善兵衛)が入手した土地を守りたかったと聞いています。
また、父は平成元年(1989年)、実父から相続していた土地と親族の所有していた土地をあわせて、現在のエディオンさんの東隣に共同で「ユーイットゥ池善ビル」を建設しました。現在は株式会社リバティ池善さんと共同で管理しています。ユーイットゥ池善ビルの管理に関わったことが、私が家業に関わるきっかけになりました。池善ビルに関わるようになったのは尾州屋さん、新雪さんが退去されたあとのことです。その後、私が設立した会社が池善ビルも管理運営していくことになりました。
建物と関わるうちに、ビルへの愛着が以前にもまして湧くようになりました。それとともにこの建物がどういう経緯で建てられ、どんな歴史をもっているのかを子孫に伝えることが私の一つの責任ではないかと思うようになりました。
池善に関する江戸や明治の資料が殆ど手元にないため、京都府立京都学・歴彩館の資料課の方々にご協力をいただいて、四条、とりわけ四条河原町周辺の町内である真町、また、池田屋善兵衛に関する古文書などの資料を少しずつ調べています。
池善は池田屋善兵衛の略で、井上家の当主は、代々、通称としてこのように名乗っていたようです。父の曽祖父もその一人ですが、弘化3年(1846年)に北野天満宮の諸堂修復に係る費用を集める係の一員として名を連ねています。また、安政3年(1856年)に江戸幕府と京都町奉行所の主導で加茂川筋の土木工事が実施されましたが、これに冥加銀(寄付)を納めたことも資料に残されていました。父が古くから大切に残している資料に、慶応4年(1868年)の『駕輿丁四府一沪控』という駕輿丁のお役目を担った京都の商人の名簿の複写があり、そこに髙島屋、三井等の有名な当主の方々の名前と並んで池田屋善兵衛の名前が在りました。この名簿の存在により、1868年ごろの池善が商いをはじめて間もなかったとは考えにくく、すでにある程度の規模の商いをし、地域からの信頼も得ていたと考えられます。また、江戸時代末期に現在の池善ビルを含む土地を購入したであろうことが、京都府立京都学・歴彩館に残されている売買記録から伺えます。四条のまちと池善は実に160年以上にわたるおつきあいというわけです。
活用してこその商業ビル
池善ビルの土地には、もとは間口六間(約11メートル)の木造家屋がありました。日露戦争後、京都市は三大事業の一つとして輸送力の増強を含めた道路幅拡張工事を進めており、河原町通も拡張されて電車が通ることとなりました。この時に河原町通の西側が二間から十二間(約22メートル)に拡幅され、交差点近くにあった池善の土地が削られることになりました。その後、大正15年12月25日に京都市電河原町線が開通します。京都市役所にご協力いただいて調べたところ、大正14年(1925年)8月に京都市と土地を売買した記録があり、当時の土地の持ち主の井上新兵衛(父の大叔父)は、土地の売却後、すぐにビル建設に取り掛かったと思われます。
令和2年(2020年)以降、新しいテナントが入居されましたが、その改装時に昔の作りがそのままになっている箇所が見えました。池善ビルは、鉄筋コンクリート3階建て屋上付きで、現在は3つの区画に分けてご利用いただいておりますが、実は北側と中央の区画の1階から3階の隔壁に区画を行き来できる大き目の木製ドアがはめ込まれています。1階の入り口にもアーチ型の木枠があり、建設当時は透明のガラス戸が設けられていたようです。南側区画(現在のMARUMARU雲の茶 京都髙島屋前店さん)には建設当時の造作がいくつか残っており、天井がかなり高く狭さを感じさせません。2階も3階も天井と階段の造りが昔のままとなっています。
昭和40年代ごろまでの写真を見ると、建物中段の10カ所に小さなレリーフ、さらに建物上部5カ所には十字型のやや大振りのレリーフが掲げられていたことがわかります。これらを含めた外観は、いつか復元できればと思っています。
池善ビルではいまなお小売店の営業が続けられており、京都屈指の繁華街である四条河原町の交差点に面する商業ビルとして使っていただいてこそ、その価値が生きるものです。今後は、店舗を利用される方が使いやすいよう、また長く使えるよう、しっかりとした改修工事を実施したいと考えています。また、窓や屋上から眺望を楽しめるような使い方もできればいいなと考えています。
大正末期に誕生し、昭和の激動期を乗り越えて築後100年近くとなる池善ビル、平成元年に建設されたユーイットゥ池善ビル、いずれも四条の発展と共に歩み続け、変化を遂げ、皆様にかわいがっていただいて歴史を刻んでいます。これからも地域の発展に貢献できるような建物であり続けられるよう、微力ながら尽力してまいります。(聞き書)